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宮司講話集

「新しい三十六功臣画」令和3年10月19日 船岡大祭にて

 本日は皆様船岡大祭にご参列賜りまことに有難うございます。今年の船岡祭はコロナ対策に鑑み、昨年に引続きまして、一般の方々にはご参列をご遠慮お願い申し上げ、この様な形でのお祭りとさせていただきました。本来であれば、お祭りはなるべく賑々しいのが望ましい訳でありまして、来年は是非とも、コロナも落ち着き、火縄銃の鉄砲武者も多数来ていただき、盛大に船岡祭を執り行えますよう心より願う次第であります。

 さて、日本の歴史上、建勲神社のご祭神織田信長公ほど、いつの世においても新鮮なイメージを持たれる英雄はおられません。神社が創建された明治初年は王政復古の時代風潮の中でありまして、信長公はまさに尊皇の英雄と崇められました。昭和に入って軍国主義の風潮が高まると今度は桶狭間や長篠の合戦等、武略の英雄と仰がれ、一転して戦後日本が文化国家を目指すようになると信長公による南蛮文化の取入れによる華麗な安土桃山文化の開花が高く評価されました。また信長公による楽市楽座、関所の廃止による自由主義経済の推進が注目された時代もありましたし、また、信長公が一向宗や比叡山等の大教団の軍事力を奪い、宗教と政治を分離した事が今は最も高く評価されているようであります。このように信長公がいつも新鮮なのは、社会の新しい仕組みを自分の頭で考えだした独創性と、その大理想を命がけで追求した実行力にあります。
 
 そして信長公の理想を共に奉ずる多くの臣下を身分の上下を問わず抜擢し、共に理想実現に向けて邁進なさいました。永禄11年上洛を果し、朝廷より官位を勧められた時に、信長公は生死を共にした功臣への賞を第一に申出ておられます。このご祭神のお考えに基づき、明治の神社創建の後まもなく功臣三十六名を撰び、その画像が拝殿に掲げられました。
 爾来百数十年の月日がたち、板絵の画像もすっかりくすんでしまいましたので、この程、元絵をカラー製版し、複製をつくり、拝殿に掲げる事となりました。今まで十八功臣の板絵を掲げておりましたが、この程ひとまわり大きい画像とし、十二功臣について三交替で掲げる事といたしました。本日この新しい三十六功臣のうち十二功臣について皆様にご披露する事となり、まことに喜ばしく存じます。また、この事業にご奉賛賜りました皆様に重ねて厚く御礼申し上げます。

 本日は皆様、船岡祭に本当によくご参列賜りました。建勲神社の大神様のあらたかなご加護をお受けになられ、益々お元気に、お幸せにお暮しなさいますようお祈り申し上げます。本日はまことに有り難うございました。

(以上)